26Sep
まいにちたいへんだなあ。つらいなあ。
と感じながら過ごす毎日は不幸ですね。
中にはそれを、ある種の達成感とみなす向き
もありますが、つらいといえばつらいもの。
辛い自分、自分は不幸だと考えるとき
たいてい「独りよがり」になっています。
自分のことしか考えないでいると、
それ可愛さに、被害者意識が強くなるからです。
なんて自分はかわいそうなんだ!と。
だって自分は人生の主人公なのだから、と。
なにかと「自分らしく」といわれ、
それがなにか善のようにとらわれると
かえって不幸感が増す気になったりしませんか?
主観的なのはいいけれど、
過ぎれば自らを苦しめます。
独眼竜で知られる戦国武将、伊達政宗が
残した『五常訓』には今も通じる訓示が
ちりばめられていますが、その中に
この世に客に来たと思えば何の苦もなし。
ということばが見つかります。
自分を主人公と考えずに、この世に客にきた、
と考えれば苦しみがないというものです。
たしかに客人として招かれた席で
この飯はまずくて食えない、とは言えないよね。
この『五常訓』の五常とは、
仁に過れば弱くなる
義に過れば固くなる
礼に過れば諂(へつら)いとなる
智に過れば嘘をつく
信に過れば損をする
伊達政宗 五常訓 (「貞山政宗公遺訓」「仙台黄門政宗卿遺訓」)
からなり、耳にした方も多いと思います。
おそらく夏目漱石の『草枕』にある
”智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい”
のリズム感を彷彿させるものがあり、おそらく
伊達政宗の影響を受けたのかもしれませんね。
続けて五常訓には、こうあります。
気ながく心穏やかにして、
よろずに倹約を用い金を備うべし。
倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり、
この世に客に来たと思えば何の苦もなし。
朝夕の食事は、うまからずとも誉めて食うべし。
元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい。
今日の行くを送り、子孫兄弟によく挨拶して、
娑婆の御暇(おいとま)申するがよし。
伊達政宗 五常訓 (「貞山政宗公遺訓」「仙台黄門政宗卿遺訓」)
読んでいて、すごくさわやかな気分にさせてくれます。
主観や特定の立場から離れて見ることを
客観的というけどたしかに「客に来た」とは、
その意味も兼ねているのかもしれませんね。
こんなはずじゃなかった!
なんで自分ばかり?
・・・など、ついつい嘆きそうになったときには
この世に客に来たと思えば・・を思い出し、
深く息を吐きだしてはいかがでしょう。
きょうもよい1日を!
この身体も「借り物」と思えば
だいじに扱いたくなりますね。
この世に客に来たと思えば何の苦もなし。(伊達政宗)