3Nov
ぼくたちがあたりまえのようにつかう「いただきます」「ごちそうさまでした」という習慣は、世界でもめずらしがられるあいさつのひとつ。
同じように世界でもめずらしいあいさつが、南アフリカ地域で暮らすナタール族でみられます。彼らは「こんにちは」の代わりに「サワボナ(毎日あなたを見てますよ)」とあいさつします。対して、応じるほうは「シクホナ(わたしはここにいます)」と返します。
つまり、この部族の人たちは、お互いに見られることで自分が存在していることを確認しあいます。
逆に言えば、人に見られなければ自分は存在しない、ともいえます。
相手を見ること、相手から見られること、というのは思っている以上にだいじなこと。ひとはみな、自分の存在がなんであるかをいつも気にかけているからです。家でも学校でも会社でも。趣味の世界、SNSの世界、そう、あらゆる場所で。
にもかかわらずぼくたちはいま、注意を払うものが多すぎます。目の前に相手がいるのにスマホをのぞいてみたり、相手に顔を向けずに話しかける。ご飯を食べているときですら、スマホをいじる。そこに、日本人独特のあいさつ「いただきます」はありません。
だれもがみな、自分の存在を相手に知ってもらいたい。相手の存在を感じていたい。だからあいさつも交わすのだろうと思います。たしかに表現は違うけど、ナタール族のあいさつも、根っこは同じというわけですね。
ともすれば、みているようで、あんがい人を見ていないだってあるかもしれません。いまのふるまいは、相手の存在をないがしろにしていなかったでしょうか?慶應義塾大学のボブ・トビン名誉教授は「ひとをみているとき、あなたは相手の自尊感情を高めています」と言います。その通りかもしれないなあ、と思います。
きょうもよい1日を!
相手の存在をないがしろにしている人は
なにより、自分をもないがしろにしがちです。
人は3種類に分けられる。見る人、示されると見る人、見ない人 (レオナルド・ダ・ビンチ)