18Jul
ふつう、ぼくたちは時間を、
過去から現在、現在から未来へと
流れていると考えます。
なに当たり前のことを言ってるんだ!
と叱られそうなくらい、ごく自然に。
でもこれ、
古いユダヤ・キリスト教の考え方に
もとづく時間感でしかありません。
アビダルマ仏教哲学では、この逆で
時間は未来から現在、過去へと
向かって流れているとされています。
時間が未来から過去へ流れる?
過去は変えられないものじゃないのか?
そう思い込んでいると、納得しかねますね。
例を挙げます。
スマホを買い換えようと、あなたは最寄りのモバイルショップに立ち寄ったとします。そこで欲しかった機種を見つけ、店員に照会するも、在庫がないので1週間待ってくださいと言われます。「ついてないな・・」がっかりしたあなたは、予約だけして店を出ます。
帰宅の途中、ふとスマホショップが新装開店していることに気づきます。試しに店内に入ると、さっき別の店で予約したばかりの機種が売られているのを発見します。店員に聞けば在庫はあるとのこと。しかもさっきの店より2000円安く、かつクリーニングキットまでおまけにつく始末。「ラッキー!」と思ったあなたは、ホクホク顔で帰宅します。
1軒目の店で「ついてない」と思った過去が、2軒目のお店で「ラッキー!」に変わりました。つまり、「未来によって過去が変わった」のです。
過去は変えられない・・・
と過去に引きずられていませんか?
過去の不幸の上に、今の自分がある。
過ぎたことにくよくよするのは、
それが因果で、暗い未来がやってくる
と決めつけているからです。
でもそんなことはありません。
流れは過去からではなく、
未来からやってくるんです。
明るい未来が、暗い過去を
書き換えていくんです。
きょうもよい1日を!
だから前を向くしかないんですね。
作り直しのきかない過去なんてどこにもないんだよ。(寺山修司)